【(不)誠実さ: 嘘をつくとき】「ウソつきたち」が人間を肯定する
昨年、「聖地巡礼」という言葉が流行した。
アニメや映画の舞台となった場所、土地をファンが訪問する行為のことを言うらしい。
いろいろな記事やSNSを見ると、聖地を巡礼するファンの気持ちが分かった気がした。
ファンにとっては、その作品が好きであることを全肯定してくれる数少ない場所。
それがいわゆる「聖地」であり、ファンたちは「巡礼」に駆られるらしい。
その気持ちは、聖地に巡礼したことのない私にもわかる。
幼少時代の母親を除いて、自分を肯定してくれる場所、状況なんて生きている限りほとんど無い。
だからNETFLIXでたまたま「(不)誠実さ: 嘘をつくとき」を見終わった時、身の回りを高い肯定の壁で取り囲まれていたことに驚かされた。
そもそも「(不)誠実さ: 嘘をつくとき」の紹介テキストを読んで興味を引かれたのは、私が嘘と本当についての関心がちょうど高まっていたからだ。
できれば嘘をつかずに生きていきたい。でも本当のことだけでは物事がうまく進まない。そんなありきたりなジレンマがふつふつと高まっていたときに、ちょうどNETFLIXでそのテキストを見つけた。
いまどきWEBサイトがユーザーにおすすめ商品・サービスを紹介してくれることは珍しくないが、こんな素晴らしいタイミングでおすすめしてきたNETFLIXはやっぱり頼りになる。
たとえば自動販売機でジュースを買うとき、商品が落ちてくるのと同時に投入したはずの小銭がそのまま釣り口から出てきた。その上には故障時の連絡先が書いてある。あなたはタダで手に入ったそのジュースを飲みながら、何を考えるだろうか?
「(不)誠実さ: 嘘をつくとき」は、人間がウソをつくことについての研究と、数々の「ウソつき」たちへのインタビューを交えたドキュメンタリー作品だ。
あることをきっかけにウソの研究を始めた男が、数多くの実験とその結果を紹介しながら、ウソについての話を始める。
人間はあらゆる種類のウソをつく。子どもがつく他愛もないウソや、スポーツ競技に勝つためウソ。不倫を隠すためにつく夫へのウソに、金を得るための不正を隠すウソなど、大小さまざまなウソが日々生まれている。
そのことは周知の事実である。しかし「(不)誠実さ: 嘘をつくとき」がオモシロいのは、そのようなウソがどんな条件下で生まれやすいのか、を実験を通じて解明しようとするところにある。
いちばん驚いたのは、「自分はふだんウソをつくことがある」ということを自覚していながら、同時に「自分は悪人ではない」とも思っている人が多いということだった。
その結果に驚いたのではなく、私はその両立に対する自覚が全くなかったことに気付かされ、驚いた。
人間はウソをつくときに、必ずしも道徳心を踏み倒してウソを突くわけではない。
それどころか、本人の道徳心に沿ってウソが生まれる場合がほとんどである。
他者からの脅迫や命令による場合を除いて、人間はウソをつくべきかどうかを、自分で判断している。
そのウソをつくことによって生まれる利益と、ウソをつかないことで生まれる利益を天秤にかける。
同じようにそれぞれの損失を天秤にかけ、総合的にウソをつくべきか判断する。
その判断には、そのときの環境や状況が影響を及ぼしてくる。
「みんな同じようなウソをついている」「ほんの少しのウソなら」「誰にもバレないし」「他人のためのウソだから」「自分が直接ウソをつくわけじゃない」といった気持ちが芽生えるとき、人間は理性的な判断を経て、ウソをつく。
その具体的なエピソードが、数々の「ウソつきたち」のインタビューを通して紹介される。
当事者たちが淡々と語る、懺悔と告白のようなインタビューの様子には妙に説得力がこもっていた。
そんなウソつきたちを次から次へと見せられ、併せて人間がウソをつく科学的な理由をこれでもかと突き付けられる。
正直いって、かなりキツい。
人間はどんな善人でも、その道徳心によってウソをつく。自分の道徳心に従うためにウソをつく。それは見ている私にとっても同じことが少なからず言える。
だから「(不)誠実さ: 嘘をつくとき」を見ている間ずっと、「お前はウソつきだ」「人間なんてみんなウソつきだ」と宣告されているような時間が流れる。
知らない方がいい事実を知ってしまったときのような気持ちになる。
しかし、ラストでやっと救いが現れる。
インタビューを受けていた数々のウソつきたち。インタビューの間は過去に自分がついたウソを思い出し、そのことを後悔するような表情で話していた。
しかしインタビューが終わるころには、そんな過去の過ちを受け容れて、前に進もうとする希望に満ちた表情をしている。
いずれの「ウソつきたち」も同じだった。
「人間はウソをつく生き物だ」という事実は、やはり悲しい事実だ。
しかし、その事実を知ってから始められることもある。
人間はウソつきだということを、「ウソをつくことはよくない!」といった現実味のない倫理観で覆い隠してしまってはいけない。
ある病気であることを認めない限り、その病気は治せない。
ウソも同じようなものだ。
人間誰もがウソつきである。
しかし、だからと言って人間誰もがダメな訳ではない。
視聴者を1回落ち込ませて、その出口をなんとなく示して終わるタイプの作品だった。