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【ホワイト・ヘルメット】生きるための最終手段

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シリアでは内戦が続いている。

その悲惨さは凄まじい。

毎日、何百発の爆撃が行われ、民間人が被害にあっている。

一発で集落がひとつ消え去る威力の爆弾が、シリアのあらゆる場所に毎日毎日落ちてくる。当然、家や建物はどんどん破壊されて、崩れ落ちる。がれきに埋まったまま命を落とす人。白いコンクリートの粉にまみれた遺体の前で、泣き叫ぶ子ども。

そんな状況がシリアでは長い間続いている。

 

そんなことが続いたら、シリアという国が消え去ってしまうじゃないか。

平和な国に住む私は、ドキュメンタリー映画「ホワイト・ヘルメット」をNetflixで見て、単純にそう思った。

 

「ホワイト・ヘルメット」とは、この作品のタイトルであると同時に、爆撃の続くシリアで、負傷した民間人の救助活動を続けるボランティア団体の通称だ。

 

ホワイトヘルメットの一団が、爆撃されたばかりの建物の中に駆け込んでいくシーンからこの映画は始まる。担架をかつぎ、瓦礫をかきわけて負傷者を捜索する。彼らはみな慌てている。なぜならそこは、いつ次の爆弾が落ちてきて目の前で炸裂してもおかしくないような状況だからだ。実際に、数秒後には画面の中でその通りのことが起きてしまう。

 

ホワイト・ヘルメットはあくまで民間の団体であるため、元々は別の職業についていた者ばかりだ。インタビューを受けている数名のメンバーも、元・建設作業員、元・縫製業者といった、およそ人名救助とは縁のない仕事についていた。救助活動に関しては、まったくの素人といっても過言ではないだろう。

 

どうしてそんな彼らに、危険かつ凄惨な爆撃現場で負傷者を救助する、なんてことができるのだろうか?

私には到底無理だ。たしかに人の命を救うのはすばらしいことだけど、自分の命を危険にさらしてまで人を助けることはできない、と考えてしまう。

彼らには、なぜそれができるのだろうか?

 

彼らの独白のようなインタビューの中に、その答えは示されていた。

「がれきの下から全ての人を助けたい」

「相手がどんな人であろうと、家族だと思って救助している」

爆撃による白煙がたちこめる中、現場に駆け付けたホワイト・ヘルメットのメンバーたちは必死に生存者を探す。その周りには泣き叫ぶ子どもや絶望で言葉を失った大人たちがいる。メンバーの一人が、瓦礫の下敷きになったまま動けない生存者を発見する。その途端に、メンバーだけでなく、その周りで絶望のどん底を漂っていたような住民たちが総出でホワイト・ヘルメットの救助に手を貸し始める。その場にいる全員で力を合わせて瓦礫をどかし、瀕死の負傷者をなんとか助け出すことに成功した。

そこにあるのは、損得や道徳観とは切り離された、人間同士が協力し合う姿だ。

何のために救助を行うのか? という問いすら意味を成さない。

なぜなら彼らは「救助を行うために救助を行っている」からだ。

そこには端緒となる理由など、もはや存在しない。

 

そんな異常ともいえる行動心理を垣間見ると、やはり平和な国で暮らす私自身を嫌でも顧みて、比べてしまい、少し落ち込む。

ホワイト・ヘルメットのメンバーやシリアの住民たちが、私なんかより何十倍も善人であるような気がしてくる。私はとんでもない悪人なのではないだろうか、とすら思ってしまう。

 

しかし、それは彼らに対するひどい誤解だった。

理由なく爆撃の現場に突っ込んでいって見知らぬ他人の命を助けられる人間なんて、本当はもともと一人もいないのだ。

シリアに住む人々は、理不尽だがすでに起きてしまっている悲劇と向き合うしかない状況の中で、日々生きている。そんな苦しい状況の中でも、人間という生き物は、なんとか必死に生きようとする。

そんな人々の姿を見ているうちに、人間という生きものには、生きるための最終手段が備わっており、それがシリアの人々の中で発動されているのではないか? と思った。

 

ある爆撃現場に向かうと、大きな建物1棟がまるごと瓦礫に変わっているような、ひどい有様だった。

そこは日本で言うところのアパートのような建物で、死傷者が多数、瓦礫の中から発見された。

そんな中、そのアパートの住人が必死に訴えている。崩れ落ちたアパートの一室に、赤ん坊が取り残されていたらしい。

夕方から始まった救助活動が続き、気が付けば深夜になっていた。疲労を押し殺して瓦礫の山をかき分け続けるが、赤ん坊は見つからない。

誰もが無念と共に、赤ん坊の救助を諦めかけていたその時、悲しげな沈黙の中に聞こえる赤ん坊のかすかな泣き声が、メンバーの耳に届いた。再び気力を取り戻し、必死に捜索を続けると、もともと天井だったコンクリートの分厚い板の下にできたわずかな空間に、砕けたコンクリートの粉にまみれて泣いている赤ん坊をようやく発見した。

メンバーの手によって瓦礫の中からそっと救助されると、周りにいた全員が歓喜の声をあげ、涙を流した。

 

赤ん坊を直接救いあげたメンバーは後にこう語った。

「希望のない人生はむなしい。生きていられない。あのとき感じたのが『幸せ』だろう」

人間は希望なしには生きていけない。

希望なんて持つことができないほど悲惨で過酷な状況でも、例外ではない。

そのとき、必死に生きようとする人間の本能は、生きるための最終手段として、根拠の乏しい希望を強引に生み出すのではないだろうか?

 

そのようにして生み出された希望がホワイト・ヘルメットのメンバーを突き動かし、たとえ自分の命を危険にさらしてでも、自分の家族が命を落としたとしても、生きようとする本能が彼らに目の前で苦しむ人々を助けさせるのだと思う。

 

生きようとする本能によって、生きるための最終手段を発動させられた人々の姿は、その必要がない生活を送っている人々の目から見ると、どうしても異常に見えるかもしれない。安全で平和な国の常識で考えれば、毎日空から何百発もの爆弾が落ちてくる国で希望を見出すなど、異常でクレイジーな心理状態だと感じるはずだ。

しかし、その姿をよくよく目をこらして見つめてみると、その奥に、人間が持つ生きようとする強い力を発見できる。

【ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ】危険な子ども達の大ゲンカ

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バカな子どもほど可愛いらしいものだ。そして、バカな大人もまた同様に可愛らしい。

 

「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」には、バカな男たちが次々と登場する。バラバラに見える一人一人の登場人物が少しずつ絡み合い、衝突したりしながら、やがて大騒動へと発展していくような群像劇になっている。

 

登場する男たちに共通するのは、全員が悪党であるということ。

コソ泥に殺し屋、強盗、借金取り、情報通、闇カジノの首領、マリファナの密造家まで、まさに大小様々な悪党たちが入り乱れる。

 

北野武監督の「アウトレイジ」シリーズも、全員が悪党、といった謳い文句で宣伝されていたが、「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」には「アウトレイジ」のような陰惨さや重苦しい雰囲気は微塵もない。

 

そこに登場する悪党たちは、どこか憎めない、不器用な悪党ばかりだ。

どうでもいい些細なことに強くこだわってしまったり、出来損ないの部下に振り回されていつも苦労していたり、悪党をやるにはあまりに純粋すぎたりと、どうにも悪事に向かない連中ばかりが登場する。そんなダメダメな悪党たちが悪戦苦闘を繰り返し、金とマリファナと銃をめぐる大騒動を繰り広げるのだから、どう見たってコメディにしか見えない展開を物語はたどっていくことになる。

 

しかし、そこで右往左往している当の悪党たちにとっては、全く笑えない出来事が次々と降り掛かってくる。

泥棒や違法販売で集めた金を元手に、裏カジノで一攫千金を狙う主人公たちのグループ。しかし、裏カジノの首領はやはり上手で、主人公の金をすべて巻き上げ、逆に多額の借金を背負わせる。1週間で返せなければ仲間全員の指を切り落とされてしまうハメになった主人公グループは、隣の部屋に住む別の犯罪グループの計画を盗み聞きし、とんでもない額の金と大量のマリファナを奪うことに成功。浮かれて朝まで飲み明かし、明け方家に帰ってみるとそこにあったはずの金もマリファナも消えていて、代わりに血まみれの死体の山と銃撃戦で荒れ果てた部屋だけが残されていた。裏カジノの首領への借金返済の期限は間近に迫っている・・・・・・。

 

そんな具合に、主人公グループを中心とした多種多様な悪党たちによる、金とマリファナの奪い合いが繰り広げられるのだ。それぞれの思惑が複雑に絡み合い、邪魔しあい、ぶつかり合うスリリングな展開が続き、最後にはいったい誰が勝つんだろう???といった興味をグイグイ引かれて、どんどん物語に引きずり込まれる。特に後半のたたみかけるような展開はすさまじい。反対に、冒頭の20分くらいは少しダラダラしているように感じられた部分があったり、関連性や脈略がなく続くシーンがあったりもした。しかしそれは後々の大きな意味を持つ伏線だったりするので、まあちょっと我慢してみていた方がいい。

 

 

さらに、「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」全体を貫いている、なんとも「イカした」感じも大きな魅力の一つだ。

登場人物たちの言動はコミカルでありながら、どこかふとカッコよく見えたりもする。しかし、彼らの振る舞いから醸し出される「カッコよさ」は、カッコいいというより、イカしてる、といった方が適切なカッコよさだ。近い言葉で言い換えるなら「ダサかっこいい」あたりが近いかもしれない。劇中で何度も挿入されるハードロック調のBGMが、そう感じさせる理由かもしれない。

 

そのような「イカした」感じが作品全体を貫いているため、物語の結末は、単純なハッピーエンドにはやはりならない。

主人公たちは大金を手にすることを目的に奮闘するのだが、結局金は他の悪党の手に渡る。金が手に入らなかったということだけ見れば、主人公たち本人たちにとってはバッドエンドである。しかし、作品を見ている立場からすれば、とても清々しく爽快な気分のエンディングになっている。

ネタバレになるため具体的な説明は避けるが、金を得て裕福な暮らしを得るよりももっとカッコいい、それこそまさに「イカした」感じを、主人公たちが失うことなく終わりを迎えることが、とても幸せに感じられるのだ。そのような価値観を、この「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」は作品を通して提示しているように思う。

 

何をするにも上手く立ち回れず、不器用で、失敗ばかりで、ツキにも見放された愛すべき悪党たち。

そんな彼らが繰り広げるドタバタ劇は、まるで銃と刃物を持った危険な子供たちの大ゲンカを見ているよう気分になる。

悪党としてダメであればあるほど可愛らしく見える彼らの必死な姿こそ、最高にイカした気分を味わわせてくれるのだ。

【(不)誠実さ: 嘘をつくとき】「ウソつきたち」が人間を肯定する

 

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昨年、「聖地巡礼」という言葉が流行した。

アニメや映画の舞台となった場所、土地をファンが訪問する行為のことを言うらしい。

いろいろな記事やSNSを見ると、聖地を巡礼するファンの気持ちが分かった気がした。

ファンにとっては、その作品が好きであることを全肯定してくれる数少ない場所。

 

それがいわゆる「聖地」であり、ファンたちは「巡礼」に駆られるらしい。

 

その気持ちは、聖地に巡礼したことのない私にもわかる。

幼少時代の母親を除いて、自分を肯定してくれる場所、状況なんて生きている限りほとんど無い。

だからNETFLIXでたまたま「(不)誠実さ: 嘘をつくとき」を見終わった時、身の回りを高い肯定の壁で取り囲まれていたことに驚かされた。

 

そもそも「(不)誠実さ: 嘘をつくとき」の紹介テキストを読んで興味を引かれたのは、私が嘘と本当についての関心がちょうど高まっていたからだ。

できれば嘘をつかずに生きていきたい。でも本当のことだけでは物事がうまく進まない。そんなありきたりなジレンマがふつふつと高まっていたときに、ちょうどNETFLIXでそのテキストを見つけた。

いまどきWEBサイトがユーザーにおすすめ商品・サービスを紹介してくれることは珍しくないが、こんな素晴らしいタイミングでおすすめしてきたNETFLIXはやっぱり頼りになる。

 

たとえば自動販売機でジュースを買うとき、商品が落ちてくるのと同時に投入したはずの小銭がそのまま釣り口から出てきた。その上には故障時の連絡先が書いてある。あなたはタダで手に入ったそのジュースを飲みながら、何を考えるだろうか?

(不)誠実さ: 嘘をつくとき」は、人間がウソをつくことについての研究と、数々の「ウソつき」たちへのインタビューを交えたドキュメンタリー作品だ。

 

あることをきっかけにウソの研究を始めた男が、数多くの実験とその結果を紹介しながら、ウソについての話を始める。

人間はあらゆる種類のウソをつく。子どもがつく他愛もないウソや、スポーツ競技に勝つためウソ。不倫を隠すためにつく夫へのウソに、金を得るための不正を隠すウソなど、大小さまざまなウソが日々生まれている。

そのことは周知の事実である。しかし「(不)誠実さ: 嘘をつくとき」がオモシロいのは、そのようなウソがどんな条件下で生まれやすいのか、を実験を通じて解明しようとするところにある。

 

いちばん驚いたのは、「自分はふだんウソをつくことがある」ということを自覚していながら、同時に「自分は悪人ではない」とも思っている人が多いということだった。

その結果に驚いたのではなく、私はその両立に対する自覚が全くなかったことに気付かされ、驚いた。

 

人間はウソをつくときに、必ずしも道徳心を踏み倒してウソを突くわけではない。

それどころか、本人の道徳心に沿ってウソが生まれる場合がほとんどである。

他者からの脅迫や命令による場合を除いて、人間はウソをつくべきかどうかを、自分で判断している。

そのウソをつくことによって生まれる利益と、ウソをつかないことで生まれる利益を天秤にかける。

同じようにそれぞれの損失を天秤にかけ、総合的にウソをつくべきか判断する。

 

その判断には、そのときの環境や状況が影響を及ぼしてくる。

「みんな同じようなウソをついている」「ほんの少しのウソなら」「誰にもバレないし」「他人のためのウソだから」「自分が直接ウソをつくわけじゃない」といった気持ちが芽生えるとき、人間は理性的な判断を経て、ウソをつく。

 

その具体的なエピソードが、数々の「ウソつきたち」のインタビューを通して紹介される。

当事者たちが淡々と語る、懺悔と告白のようなインタビューの様子には妙に説得力がこもっていた。

そんなウソつきたちを次から次へと見せられ、併せて人間がウソをつく科学的な理由をこれでもかと突き付けられる。

正直いって、かなりキツい。

人間はどんな善人でも、その道徳心によってウソをつく。自分の道徳心に従うためにウソをつく。それは見ている私にとっても同じことが少なからず言える。

だから「(不)誠実さ: 嘘をつくとき」を見ている間ずっと、「お前はウソつきだ」「人間なんてみんなウソつきだ」と宣告されているような時間が流れる。

知らない方がいい事実を知ってしまったときのような気持ちになる。

しかし、ラストでやっと救いが現れる。

 

インタビューを受けていた数々のウソつきたち。インタビューの間は過去に自分がついたウソを思い出し、そのことを後悔するような表情で話していた。

しかしインタビューが終わるころには、そんな過去の過ちを受け容れて、前に進もうとする希望に満ちた表情をしている。

いずれの「ウソつきたち」も同じだった。

 

「人間はウソをつく生き物だ」という事実は、やはり悲しい事実だ。

しかし、その事実を知ってから始められることもある。

人間はウソつきだということを、「ウソをつくことはよくない!」といった現実味のない倫理観で覆い隠してしまってはいけない。

 

ある病気であることを認めない限り、その病気は治せない。

ウソも同じようなものだ。

 

人間誰もがウソつきである。

しかし、だからと言って人間誰もがダメな訳ではない。

視聴者を1回落ち込ませて、その出口をなんとなく示して終わるタイプの作品だった。